CTO解任から逆張りのアンラーニングでの成長【ASCEND Stories増谷侑一編】
アセンドで働く人たちの成長の軌跡を辿る「ASCEND Stories」。今回は共同創業者でプロダクトエンジニアの増谷侑一です。
SIerから30歳でアセンドを共同創業した増谷。「Day1から苦しみ続けたからこそ、自分のような人間を支えていきたい」と語る増谷の成長を代表の日下が聞きました。
共同創業から半年でCTO解任、創業メンバーとしてのハードシングスとは?
──いきなりショッキングなタイトルですが、まずは簡単な自己紹介とアセンド入社までの経緯を教えて下さい。
私の出身は北海道江別市で、代表の日下とは同郷、小学3年生からの付き合いです。大学で理論物理を専攻し大学院では脳科学に関する研究をしていました。豊かな社会の実現のため公共性の高い事業に携わりたいと考え、修士修了後に新卒で新日鉄住金ソリューションズ(現・日鉄ソリューションズ)というSIerに入社。4年半ほど、ITインフラエンジニアとしてオンプレミスサーバーの導入や保守開発に携わっておりました。
日下とは社会人になってからも付き合いが長く、日下が主宰する社会人勉強会や団体活動などを通じてずっとコミュニケーションをとっていました。2019年くらいから日下が政治家になるか起業にするかを悩んでいる中、色んなアイデア出しを通じて一緒に起業するという道を選択しました。
──社会人として順調にキャリアを歩んでいる最中だったと思いますが、今思い返して何故起業という選択肢を取ってくれたんですか?
日本の物流課題や社会課題として解くべきということはすごく同意だったし、日本の物流業界全体の変革に挑戦したいという夢にも共感はしていたんだけど、「それ、ほんとにいけんのか?瑞貴(日下)、夢見てないか?」と正直思ってました(笑)。
夢の大きさには戸惑いつつも、自分の決断としては楽観的なところもあって結構あっさり引き受けた記憶があります。30代、チャレンジできる最後のタイミングかなって思ったのもあり、日下と森居(共同創業者CPO)となら賭けても良いと決意しました。
──ありがとうございます。創業当初はCTOとして参画してもらったものの、その後半年を待たずしてその役職を降りてもらうことになるわけですが、創業してからの日々についても教えて下さい。
「SIer的な考え方」という表現が適切かは分かりませんが、役割を切って責任の範囲を定める的な動きをアンラーンをしていくことに苦労しました。その頃から、お互いにドキュメントベースのフィードバックをしていく文化を大事にしていましたが、喫茶店で日下から受けたフィードバックは(10点満点中)3点、相当厳しく指摘を受けました。その後も都度都度指摘を受けていたため覚悟はしていましたが、最終的には「CTOを降りてほしい」と創業半年くらいのタイミングで言われました。
──メンバーのハードシングスという意味で非常に貴重な内容だと思います。CTO解任に伴い降格人事や株式の移動など、自身にとっては不都合な内容も多くあったと思いますが、この点は自分の中でどのように整理したんでしょうか。
客観的に実績として残せなかったという点があるから受け入れることは難しくなかったです。創業初期のスタートアップにとりわけ顕著な、一人が持たなくてはいけない責務の幅広さ、仮説検証のスピード感、それを担保するための圧倒的な仕事量というのに全然ついていけず、「そうだよね。受け入れるよ。事業のためになるなら」と、比較的あっさりした回答をした認識です。
ちょうどその頃、後に投資家として参画して下さるALL STAR SAAS FUNDのカンファレンスに行き、「創業初期とかみんなCxOってつけるんだけど、安易につけるものではない」という話を聞き、その時「これは自分のことでは」と気づく瞬間もありました。
「社長の親友だからとか、創業メンバーだからとか、その種のラベルで守られる会社にはしたくない」と思い、自分のレベルを受け入れ、やるべきところで価値を果たそうと意識を新たにしました。元々会社のミッションに強く共感して始めたことや丁寧に理にかなった説明を受けたこともあり、株式や降格の話とかはあまり気にはならなかったというのが正直なところです。
苦しみは続く。新CTOの下、踠き続ける日々
──ここまでで既に大分肉厚な話になっていると思いますが、残念ながら苦しみはまだしばらく続くことになると思います。新CTOとして丹羽が就任した後の話についても聞かせてもらえますか。
創業して1年経つ頃に現CTOの丹羽が入ってくれましたが、そこから、彼の思想に追いつく、技術に追いつく、我流でやっていたところを体系的にインストールし直す、というのがとにかくチャンレンジでした。
強いエンジニアの"思想"に初めて直に触れ、「自分とはレベルが違いすぎる、恥ずかしいな」と思う日々でした。丹羽は自分が知る限り本当にトップ・オブ・トップのエンジニアだと思っているからこそ尚更、その気持ちは強くありました。
──そうですね、彼が入社してからプロダクトは文字通り1から作り直すなど大きな転換を迎えていた時期です。CTOとしての丹羽を当時どういう視線で眺めていましたか。
彼は「こういう体験を実現する」「こうであるべき」という思想から落として技術を決める。ユーザーや業務から逆算して技術も実装方針も選定するというアプローチを徹底する人間です。それは間違いなくSaaSの設計思想として正しく、一方でそれは自分のこれまでの思考の順番を丸っと入れ替えるということで、この転換がとにかく難しかったです。だからなんでこんなにこだわっているのかわからないなところも正直ありました。
──気晴らしを兼ねて北海道出張に同行してもらい、地元江別のつぼ八まで行って飲んだのもあの時期です。その時はエンジニアからCSサポートやプリセールスにジョブチェンジをしようか等、色んな可能性について議論した記憶があります。
逆張りのアンラーン。自分の勝ち方を見つけ、人の成長を支える人間に
──北海道から帰ってきたタイミングで、丹羽と増谷の間にミドルマネージャーを入れようということでレポートラインが丹羽から宮津に変更になりました。その後についてマネジメントスタイルの違いを含めてどうでしたか。
良い悪いではなくマネジメントスタイルは全然違いました。丹羽は何事も思想やマインドセットから入る。エンジニアとしてのあるべき姿はインストールできたものの、プラクティカルではない分、自分と彼の間をどう埋めればいいのかわからず、行動に落とせない部分もありました。
一方で、宮津はその反対でスタンドアップの記録眺めて「今週どうだった?」「ここは?なんで時間かかった?」「そういう時はこういう風にやった方がいいね」とすごくHands-onな指導するスタイルでした。
徒弟的に宮津の動きを学ばせてもらい、そこでどちらかというと、データの移行や壊れたデータを治す、安定してプロダクトを回すところへ立ち返るという意味で、アンラーンしようとしていたSler時代に部分的に回帰していった感覚です。
すると、できることが少しずつ増えていき、少しずつ自己肯定感が増して、自分がフォーカスして価値を発揮できるところをもう一度見つけてという形で良いサイクルに乗れました。宮津と過ごした半年間はひたすらに貴重な時間でした。
──かなり壮絶なアセンドでの3年間だったと思いますが、正直辞めようと考えたことはなかったんですか?
CTOの丹羽のことは、エンジニアとしてはもちろん、一人の人間としても本当に信頼していますし、彼には自分できなかったことやってくれた恩をものすごく感じているんです。だから彼のことは絶対裏切れない。それに「もし」の話で辞めた後のこと考えても、日本経済は縮小をたどる一方でフリーランスのエンジニアになって小金稼いで生きていても仕方ない。
アセンドでの仕事は目標が大きい分だけ苦しむこともあるけれど、何事にも変えられない学びと、支えてくれている仲間がたくさんいる。これ以上の環境は絶対にないってことが分かっている以上、逃げたらいかんと思っています。先日丹羽と一緒にサウナに行きましたが、「侑一、長かったね。ここまで来るの」とサラッと褒めてくれましたのは素直に嬉しかったですね(笑)
顧客課題や自身に真摯に向かい合い続け、共に業界を変えていてく仲間を募集しています!
──最後になりますが、これからアセンドに入社を検討頂く方に向けて一言頂けますでしょうか?
スタートアップは事業の成長とともに自分自身も成長させていくことが求められるものと考えています。自分は創業から苦しい時間が続きましたが、今はようやく自分の勝ちパターンが見えつつある状態です。
アセンドはチャレンジングでやりがいのある環境だからこそ、自分のように苦戦する人が現れた際には、支え、何かしらのヒントを与えられるような存在になれたらと思っています。何かを掛けて挑戦したい、社会課題の解決に邁進したい、そんな気持ちを持った仲間と一緒にアセンド(成長)していきたいと思っています。